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娘として、そして母として

著者:ロクサンヌ・ランケトー  訳者:林 建郎 [Schizophrenia Bulletin Vol.14,No.2,1988]
私の知己には、音楽家の家系とか、芸術家の家系であるとか、あるいは医者の家系の出身などとその出自を表現できる者が何人かいるが、私の場合、それは精神分裂の家系と言わざるを得ない。しかし、これを考えるたびに私は、家族の健康な一員でありながら精神病の重荷を背負わされたものとしての、憤りや嫌悪感と同様に、激しい恐怖を感じる。

「重荷」の定義は、ウェブスター辞書によれば二つある。
1. 負荷、義務、責任などの負わされるもの。
2. 耐えがたいこと。心配なこと。

この二つの内、より具体的な最初の定義は、精神病を患う私の息子に対する私が負わなければならない責任感をよく表している。二つ目の心理学的な響きをもつ定義は、精神病である母に対する私の気持ちを表している。これら二つの定義が異なるように、それぞれの状況に置かれた場合の、私の反応や対応方法も異なっている。この寄稿文の中で私は、分裂病の母親を持つ子供と分裂病の息子を持つ母親の両方の立場からの感情の比較と対比を試みたい。子供の頃の記憶が歳をとるとともに薄れて行き、狂気に対する恐怖から逃れるために無意識下に閉じ込められてしまうように、私はこれらの記憶を分析のために表面化させ、できればそれが、年齢や精神病患者との関係で精神病の受容とそれに対する反応がどの程度左右されるのかについての、より良い理解につながることを望む。

精神を病む母親に育てられる(スキゾフレニア・ブレティン-1984年  10:467-471)ことは苦痛をともなうやっかいなことであり、私の自己形成をさまたげた。私は自分が母に似ていること、即ち自分もどこかがおかしいという恐怖にさいなまれ続けた。ひどく自己意識が強く、他の子供に対して劣等感をもった私は、生き延びるため、家族からの呪縛を解くため、そして自らの力でひとり立ちするために計画を立てねばならなかった。成人するまでは、子供の頃から形成した自信の欠如と不安とを克服することはできなかった。

もし自分の母が精神病だということを早くから知っていたら、自分のおでこに「精神病」とスタンプがおされることを私もおそれたであろう。私は同年代の子供たちの「ナウいグループ (in-group)」に入れてもらいたくて多くの努力を払ったにもかかわらず、結局受け入れられることは無かった。私の気持ちは母の奇妙な行動に対する呵責と、自己の性格の基本的な欠陥への呵責との間を行ったりきたしていた。自分でも気分が良いときは、私は母を責めた。しかしほとんどの場合私は、自分を形作っている性格のなにかが仲間からみてまったく魅力ない人間に私をしているのだという考えに苛まれつづけていた。私と母とは鼻の形や眼と髪の毛の色を除けばうりふたつ。二人の趣味までが似てくるに至って、母に間違われるのではないかという私の中の不安はさらに増大した。

私の家族のような親族をもつことは、迷惑で恥さらしなことであった。家の中は滅茶苦茶で、母は常にひどい格好をしていてどんな行動に及ぶかまったくわからないため、友達を連れてくることもできなかった。もしクラスメートの誰かが私の母の悲鳴を聞いたとしたら、私は烙印を押されて終わりだったであろう。母が、関係の無い通行人をつかまえて、ボサボサの黒い髪と鋭い青灰色の眼光で魔女のようににらみながら、敵意むき出しの面相で、「どうしたってのさ、あんた。なんでそんな風にあたしをじろじろ見るんだい。出るとこ出ようってのか?」と大声をあげたとき、私は歩道が二つに割れて、自分を吸い込んで欲しいと願ったものだ。

孤児に生まれたほうが数倍ましだったと確信する私は、母の存在を隠し、あたかも彼女が存在しないかのごとく振舞うことにした。幼年期から思春期を経て、成人するまでの私の時間は、自分の感情をごまかし、赤の他人になりきろうとする努力に費やされた。クラスメートが開くパーティに呼んでもらえないことで、自分はそんなこと気にするものかと言い聞かせたが、現実はまったくその逆で、私はくやし涙にくれた。

私の母は16歳の時、州のピアノコンテストに優勝し、シカゴ音楽学校に3ヶ月学んだあと、父と結婚した。結婚後も彼女はピアノ演奏を続け、作曲活動をし、バレーのレッスンを受けていた。私が生まれ、母は私に自分が果たせなかった夢を託したに違いない。私は音楽とダンスの教育を無理強いされ、自らの意思に反して芸術家になることの恐怖に怯えた。私は、もし自分が才能のかけらでも見せてしまったら、母はスタジオの扉を鉄のかんぬきで閉めてしまうに 違いない、と考えた。バレーや音楽は好きだったにもかかわらず、私には母が自分の後ろで常に声を潜めてドラムをたたいているような気がして落ち着かなかった。

「ロクサンヌ、私にはあなたが才能ある人間であることがよく分かるわ。しっかり練習すれば偉大なダンサーになれるはずよ。」と母は私によく言ったものだが、クラスのほかの女の子に比べていかにも不器用な私をつかまえて、何故こんなみえすいたことが言えるのだろうか。彼女が口やかましく言えば言うほど、練習の成果は上がらなかった。いまだに思うのだが、もし芸術の方面だけに的を絞って教育を受けてきたとしても、私は芸術家として名をなしたかどうかは分からない。

私の母に対する気持ちは愛憎相争うものであった。母を愛しはしたが、また同時に死ぬほどに嫌ってもいた。彼女の芸術的才能を尊敬していたが、自分で名を成すことができずに、私に夢をおしつけるしかなかった彼女を軽蔑した。 芸術好きの母に付き添って、私はよくいろいろなイベントに率先してでかけたが、彼女と一緒にいるところを見られるのは耐えられなかった。私はロシア・バレー団のカンサス・シティー公演の際、彼らを呼んでパーティを開いたボヘミアンな母を誇りに思った。その男性ダンサー達に言い寄られたことを私はクラスメートに自慢したが、居間でショパンのワルツを弾く母に遠くから秋波をおくる彼女の芸術家ぶったボヘミアンな友達を私は嫌った。

母の欠点を補うこと、とくに家事と彼女に約束の時間を守らせることは私の子供の頃の日課であった。私は「小さなおかあさん」役を振る舞い、兄弟達の誕生パーティを段取ったりした。自分には誰もパーティを開いてくれないことに腹を立てながら。

子供の頃は祖父母の警告が私の耳から離れなかった。「いいかい、忘れちゃいけないよ。」初めての入院から母が退院したとき、彼らは私にこう言った。「おまえが大きくなったら、母さんの面倒をみるんだよ。」彼らは母の発病以前から、彼女の異常に気づいていたはずだ。なぜなら孫娘を早くから彼女のケア・テーカーに育てあげようとしたから。私には祖父母が私を年長の孫娘としてではなく、娘のケア・テーカーとしてしかみていないように思えて、それが嫌でたまらなかった。

子供の頃は、母は甘やかされ過ぎていると考え、祖父母の過保護が母の人間としての成長を妨げる、と批判した。もし祖父母が意志を強くもって、娘の自助努力を促したらば、母と妻の役割をまっとうできるにと考えたのだ。私は後に大学の心理学のクラスで、「精神分裂病を作る母(shizophrenogenic mother)」について学んだとき、祖母にこれを無理矢理当てはめて考えた。しかし、後年祖父母が母に自立を強制することなど到底無理なくらいに、彼女の症状は進んでいたことを私は理解した。

私の人生は、母の病気に関する理解不足と情報不足による不確実性に左右されていた。彼女は完全に支離滅裂で、我が家では混乱が支配的であった。安定した時間などなく、次に何うなるのかが私にはまったく分からなかった。外出したときなどは、「オズの魔法使い」の中で主人公のドロシーを運んでいったハリケーンと同じようなもので家が吹き飛ばされてしまえば良いのに、と私は考えた。母が行方不明になり、祖父母がニューヨークまで彼女を引き取りに行くと、予期せぬことに父がもどってきた。そして母がその後原因不明の「ぼんやりした」病気でカリフォルニアで入院生活を送っていた1年半の間、我々子供の面倒を見てくれた。

更に驚いたのは、退院して戻ってきた別人のような女性を母と呼ばなければならないことだった。私の本当の母はどこへ行ってしまったのだろうか?私は母との関係をまるで新人のようにまた一から始めなければならないことを腹立たしく思い、心に葛藤を感じながらも昔の母を取り戻したいと願った。誰も彼女の病気について説明してはくれなかったので、私は自分の成長とともにその精神病の意味するところを探って行かねばならなかった。

私にとっての唯一の救済は、家を離れることだった。子供の頃からの憧れは大学で、私は学校も学科も自分で選んで応募した。家族はだれも私の学歴など気にかけないので、しかたなく入学願書は自分で記入した。私はカンサスシティからできるだけ遠くに離れた大学を3校選び願書を提出したが、合格の通知がきて初めてこの選択に家族からの反応があった。祖父はシカゴという町は若い女性には不向きな場所、と反対した。しかし私には、母のシカゴでの気まずい経験から祖父がそれに反対していることは分かっていた。彼はバーナード大学やスタンフォード大学は家から遠すぎる、という理由で反対した。叔父がハーバード大学へ進学したときには何も言わなかったのに。恐らく祖父はカンザス大学なら許可したと思う。彼が私の進学を嫌う理由は、母から私が遠ざかることことにあることは明白だった。こんなことに対する私のむかっ腹と、祖父からの干渉がなかったとしたら、大学へは行かなかったかもしれない。

正気を保つ唯一確実な方法は、逃避だった。結婚するまでの私の人生は逃避がすべてだった。まず大学へ、そしてフランスへ。しかし逃避によっても、母のケアテーカーとしての義務を怠ったことや、責任を逃れたことで祖父母を失望させたことなどからくる罪の意識からは逃れることができなかった。

私は自分の逃避を完全なものにするため、フランス人の建築家と結婚しパリに住むことにした。建築家を選んだのは自分の芸術にかかわる経験からだった。私はバレーを習うために1年間を過ごし、自分への信頼を形作ったパリに再び惹きつけられていった。1961年には息子が生まれて、私は健康で美しい息子の誕生に大喜びだった。フランス人の息子に精神病など関係ない、と思った。

摩天楼の設計に携わりたいという主人の希望を受け入れて、環境を変えるのもよいかもしれないと考え、ニューヨークへの移住に私は反対はしなかった。自分の感情をコントロールするうえで、もはやパリの環境が必要ではなかったし、母がカンザス州ニュートンの病院で入院治療していることも頭の中にあった。

私達の息子は大喜びだった。彼は国連学校(United Nations School)に入学し、教師や生徒達のあいだでも人気者になった。10歳の時、彼はその年のクリスマスに放映されるUNICEFの特別テレビ番組に、映画スター達と共演する数少ない一般の出演者として生徒の中から選ばれた。私はこのことを大変誇らしく思うとともに、彼の幼年期が私のそれとは正反対であることに大きな救いを感じていた。彼はバランスのとれた幸せな少年で、仲間からの人望もあり、すべてを上手にこなしていた。のどかな少年期を過ごす男の子は、たとえその母が神経症であっても、あらゆる問題とは無縁なはずだった。

彼が14歳で学校をドロップ・アウトした時、精神科医は、彼が両親の愛情と教育不足による青年期の反抗に苦しんでいる、と診察した。私は考えのまとまらない、でしゃばりな母親で、夫は頑ななフランス人の父親であるとされた。息子の麻薬中毒が進み、犯罪を引き起こしそうになるまでに状況が悪化したとき、私は「精神分裂病」の可能性について、息子の精神科医や精神科専門の友人に問い掛けてみたが、だれも耳をかそうとはしなかった。

夫と私は息子のひどい状況にショックを受け、それを我々の友人達にどのように話したらよいものか当惑した。昔からの友人達と出会い、彼女等が自分の子供達がアイビーリーグへ進学したことなどを誇らしげに語り、貴女の息子さんは?と私に質問した時、私はかって子供の頃感じたように、歩道が二つに割れて私を呑み込んで欲しいと願った。いったい私達のあのすばらしい息子になにが起こったのだろう?犯罪や反社会的な行動は私達の行動パターンから遠くかけ離れていたはずだ。親の愛情や教育不足が原因で息子が非行化したのではないことは知っていた。しかし、罪の意識が潔白であるはずの信念をいつのまにか侵食し、我々の関係は崩壊寸前まで行ってしまった。

ペイン・ウィットニィ病院での診断は"境界例(borderline)"、そして薬はトラジン(Thorazine)を処方された。息子は薬物療法には従わなかったが、高校は卒業した。大学に彼が進んだとき、夫と私は大いに安堵した。やっとこれで苦難の時から開放される、と。息子は大学に入学して数ヶ月後、またここもドロップ・アウトした。彼は学問や就職に興味はあるものの、計画性をもって生活してゆくことは困難であった。どんな仕事も長くて3週間しか続かなかった。 このころになると親である我々すら、他の人同様に彼が怠け者であることを認めざるを得なくなっていた。その後4年間、彼は代償不全を続け、1984年の11月になって初めて、疑う余地の無い精神分裂病と診断された。ライトを点けずに車を運転していたことをとがめた警官を襲い、ベルビュー病院に入院して7ヶ月を過ごした後、彼は、中間施設に送られた。

彼の病気について初めて知らされたとき、私はショック状態に陥ってしまった。 まず、どうしてあの立派な私達の息子が、まともな教育を受けた中産階級の出でありながら反社会的な行動をとったのだろう。それは大変な屈辱だった。私の友人達にどうやって息子が非行少年であることをいえば良いのか?さらに、何故あのすばらしい少年が、すべて彼の思いどおりになっていたにもかかわらず、精神病になったのか?

息子が精神分裂病と聞いて、私が持った最初の感情は安堵の気持ちだった。4年間も無目的にさまよい、学校へは行かず定職に就かず、最後に彼はどん底におちて精神分裂症という宣告がくだされたのだ。奇妙に聞こえるかもしれないが、息子が非行少年というレッテルを貼られるよりは、精神病患者であることのほうが受け入れやすかった。呪われた家系からの遺伝は彼の責任ではないからだ。

ショック状態のせいか、あるいは希望的観測のせいであろうか、夫と私は精神分裂病が息子をすでに破壊してしまっていることに気づかずにいた。症状にあった薬がみつかれば、じきにもとどおりになって帰ってくる、という幻想が我々を失望から救ってくれていたが、彼に起こった変化が恒久的なものであることを知ったとき、我々の失望は大きく深かった。息子の機能低下振りは苦痛に満ちたものであったが、我々は気を取りなおし、落胆を乗り越え一致協力して彼の幸せのために頑張らなければならないと決心した。

専門家や友人が、私達夫婦には彼の発病原因の責任は一切ないと、勇気付けの言葉をかけてくれるにもかかわらず、一抹の罪悪感が心にはあった。我々は発病には手を貸さなかったが、それを防ぐ何らかの手立てを講ずるべきであった。 我々には彼の病気を防ぐ超人的な力を持ち得なかったことに落ち度があった。私にはまた、母に対しても、彼女の発病原因の一端をつくったのではないかというひそかな気持ちがあった。

私の息子に起こった変化は、母のそれの場合と似通ったものではあったが、落胆の度合いは遥かに大きかった。私は"新しい母"と知り合う必要があったが、彼女に起こった変化と機能低下について理解するには若すぎたのだ。私は私の祖父母がそうであったように、聡明な芸術家が病によって朽ちてしまうことを決して望みはしなかった。私は夢と知りつつも、息子の帰りを願っている。私の悲嘆に終わりはない。そしてこの生き地獄は開いた傷のように私のからだをつきとおしている。死んだ人間であれば心の痛みはいつか思いでに変わるだろう。しかし精神の病の場合は、病んだ息子を訪れるたびにあらたな痛みがうまれるのだ。

精神病であることの汚点はまだ消えていない。我々はその子供達が立派な成績をあげている友人達の前で、自分の息子の社会心理学的リハビリプログラムへの参加について語ることに戸惑いを禁じえないし、彼が友人や親戚、そしていっしょに育ったいとこ達からも忘れ去られた存在になっていることがとても悲しい。私の息子を勘定に入れた招待なぞ望むべくも無い。去年、仲の良い友人達が休日の会食に私達が息子を連れて行く、と言ったのを理由に招待をキャンセルしてきたことで、私は悲しくて3時間のあいだ、ずっと泣いていた。私はティーンエイジャーの頃、母の精神病のせいで同じような拒絶にあいたくないために、友人達には母の発病のことや入院のことを隠しつづけていたのだ。

親として我々は息子の将来に恐れと不安を抱いている。投薬による治療を続け、施設にいる限り息子は自分の人生をコントロールできるが、もし抗精神病薬の服用をやめてしまったらどうなるのだろうか。彼はもう大人なので私達が彼の面倒をみる立場には無い。そして私達が死んだ後、彼の面倒をみる人はいないのだ。思えば亡くなるずっと以前に、私の祖父母は母の面倒をみさせるために、彼女の子供を後見人にすべく準備したのだった。

どちらの場合も私が感じる怒りは同じである。精神病の母の娘であることへの怒りは、この家系に流れる分裂病と、自分がそれを次代に引き継いでゆくという運命への怒りに変わるのだ。私は自分の息子だけが病気になり、家族のほかの人間にはなにも起こらないことが腹立たしい、とさえ考えたことがある。

夫はとても協力的であり続けてくれた。息子の反抗的な、抑制のきかない態度に我々の結婚生活も一旦は壊れかけたが、それに続く彼の発病が二人をつなぎとめ、傷を癒したのだった。"頑ななフランス人の夫"のせいで息子が非行に走るのだ、と彼をせめたとき、精神分裂病の種を持ちこんだのは君ではないかと云われるのを私は恐れた。しかし夫は何もいわなかった。私達は以前にもまして心をひとつにして息子の世話をしている。そして、友人や心配してくれる専門家からの支持も得ている。

この病を理解することが、それを私の中で受け入れるのを容易にした。ベルビュー病院で得た知識と、今までの経験とが私の精神病に対する教育を形づくった。精神分裂病は、私が子供の頃にそうであったような謎の多い病ではもはやない。そして私の息子の回復への期待は大きくないことを私は理解している。 私は精神科医と息子の薬物療法について議論し、病がぶり返す兆候につねに気をくばっていなければならない。

精神病の重さを祖父母と分かちあったことで、私は今彼らの感じていたであろう喪失感、そして母の幸せへの関心と心配を理解し、精神病の子供を持つことの重責感に共感できるのだ。もしひとつだけ望みがかなうのなら、息子が発病前のような彼にもどって欲しい。それがかなわないときは、孫のひとりに私が死んだ後の息子の面倒を見る役目をひきついでもらいたいと願っている。
筆者について

ロクサンヌ・ランケトーは文学修士及び理学修士の資格を持ち、過去17年間ベルビュー精神病院の公立学校106Mで教鞭をとっている。生徒は若年の入院患者である。彼女はニューヨーク市立大学で教育心理学の博士課程を履修中で子供に関する著述にも興味をもっている。


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